2006年10月18日
死刑廃止論リレーのまとめ
そもそも、このお話が持ち上がっても、お玉には無関係だと思っていた・・麗子様と玲奈さんがいくら誘い水をむけられてもお玉は書くつもりはなかった・・だって、あまりにも能力の限界を超えてたんだもの・・(T_T)
バックレルつもりだったときに、図書館で憲法関連の書物を漁っていて、ふと、目に留まった・・それが
そして、死刑は廃止された
でした・・・ああ、見てはならない本を見つけてしまった・・・読み進めていくと、これがお玉にでも十分理解可能なくらいわかりやすく、臨場感に溢れる内容で・・
読者が求めているものとあまりにもかけ離れていることは百も承知でしたが、時事ネタはお玉達が書かなくても政治ブロガーみんなが、誰かが書いてくださる。でも、そうではない、書きづらい話題、忘れ去られているネタを掘り起こしていくこともやってみたいそんな気持ちで、お玉はこれからもこういうリレーをやりたいなあ・・と思ってる。なんせ、お玉だけではあまりにも知識不足でして・・・(^^;)
散々引っ張って、引っ張って・・やっとこさ、村野瀬玲奈ちゃんの全訳を紹介させて頂きます。喜八ブログさん、素敵にまとめてくださってありがとうございます。そして、玲奈ちゃんお疲れ様でした。m(_ _)m
死刑廃止について、リレーエントリー「お嬢さま、玲奈と死刑廃止を考える」
第1回 とりあえず(luxemburg)
第2回 お玉おばさんでもわかる政治のお話(お玉おばさん)
第3回 とむ丸の夢(とむ丸)
第4回 華氏451度(華氏451度)
第5回 doll and peace(ぷら)
第6回 薫のハムニダ日記(ハムニダ薫)
第7回 とりあえず(村野瀬玲奈)
第8回 喜八ログ(喜八)
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この記事へのコメント
死刑に賛成する方々の中には、死刑には犯罪抑止力や遺族に対する慰撫の力があると信じている向きもあるのだということを改めて感じました。
しかし、個人が行えば罪を問われる行為を国家が行えばそれにはポジティブな意味が生ずる、ということに全く納得していない私がいることにも改めて気付きました。
犯罪を減らすための社会的努力をすることに反対する人はいないと思います。その努力は、人を殺すという殺伐とした手段では実現されない、と改めて思います。
この長いリレーエントリーと長い演説の一部でも読んでいただいた方々に心から感謝します。
いじめがなぜいけないことなのかを人間の尊厳や人権(世界人権宣言で言われている意味における人権です)にまでさかのぼって考えなければいけない。それをしないで政治や行政からの上意下達の圧力(教育基本法の作り替えなど)を強めてもいじめが減ることはない。それどころか人心が荒れていじめは増えるのではないか。
「結果としての犯罪者をきびしく死刑にするだけのことでは犯罪は減らせない」ということを改めて思った後、福岡いじめ自殺にも上のように思いが湧いてきたところです。
死刑は反対だった。
同害報復が悪い感情を生み出す事はあっても、前向きな何かを生み出す事はないと思っていたから。
机上の理論だった。
自分の事に置き換えてみた。
許せなかった。
悔しくて涙が出た。
心が激しく痛んだ。
今は…
答えが出せない。
自分の愛する人が…
自分が誰かを…
思うたび、痛い。
そして、麻原彰晃の死刑が確定してよかったと思っている。
小林薫も死刑が妥当だと思う。
死刑にすることで被害者が救済されるわけではないが、一矢を報いたいというのが心情だ。
大小差はあれ人間は必ず間違いを犯す動物だ。この先も許しがたい犯罪者が生まれるであろう。だから死刑を存続させたほうが現実に即していると考えます。
場違いですみません。
本日の話題とは全く関係のないTBですし、ちょっと大変かもしれませんので、文章ともども削除して頂いて結構です。
私、あんなに命掛けで文章書いたのはじめてです。フ〜ウ〜。
追記・
お玉さま、とくらさま、SOBAさま、喜八ログさま、・・・
みんな仲良くしていて下さいねぇ!
場違い、すみませんでした。
TBは以前から申してますように、どんな内容のものでも全然OKですよ〜〜まして、こんなエントリーなら是非TB下さいませ。大歓迎です。
ただ、追記の方は・・出来れば以前のようにメールでお送り下さい。ここに書く気も今後よそで話す気も全くありません。(ちゅう事で、この話にここでレスつけないでくれ〜〜みんな!)
>大小差はあれ人間は必ず間違いを犯す動物だ。
罰は必要だと思います。あらゆる行為には代償が伴うからです。
ただし、まちがいを犯す動物だからこそ、冤罪という可能性も決して否定できないわけです。
死刑執行人は、明らかに有罪の受刑者を執行するときでも、我々には想像のつかない痛みを感じると言います。「とりあえず」さんのブログを参照下さい。ましてや、冤罪の可能性が少しでも残されているとすれば。我々が社会生活を営んで行く上のコストを、かれらだけに負わせていいのだろうか?と思います。
ご存知の方も多いと思いますが、被害者支援運動の中核にいる弁護士さんです。
この方は、そもそもは死刑反対派だったそうですが、身内の方が犯罪者に殺されてしまい、死刑賛成派に転向します。
死刑反対派の意見の中にも、「もし、自分の身内が殺されたら死刑賛成派になるかも知れない」というのをよく目にします。
これに対し私は、「人間とはそういうものだろう」との感を持っていましたし、また、「そもそも、我々第三者というものは常に中立の立場に立ち、殺された側だけでなく殺した側の意見も聞かねばならない」との信念も持っていましたので、被害者の立場にのみ立って死刑問題を考えねばならないことはないとも考えてきました。
そのこと自体は今も変わっていないし、間違ってもいないと思っています。
しかし、最近は果たしてそういう見方だけでよいのかとも思い始めています。
沢山の国が死刑を廃止したけど、それぞれの国で、決して、廃止の方向と世論が一致しているわけではありません。だからよけいに私たちには語りにくいのですよね。国が人を裁いて殺すことの意味を考えるには指南書がいると思う。お玉以外の人のエントリーやバダンテールの本、是非読んでみてください。
かの弁護士さんは表立っては批判されていません。
死刑賛成派は批判するよりも利用した方が得策と考えているようですし、反対派も身内の不幸に遭われた人を批判するのも忍びないとの感情があるのでしょう。
しかし、果たしてそれでよいのでしょうか。
私は一面において批判されてしかるべきではないかと考えています。
やはり、どこかおかしいですよ。
立場が変われば主張も変わるというのなら、それは「思想」とは言えないはずですし、身内が被害に遭って意見が変わるということは、結局、その程度の死刑廃止論しかその人が持っていなかったということではないでしょうか。
一方で数は少ないですが、身内が被害に遭っても死刑に反対している人もいます。
私はその人たちこそ、真の死刑反対派ではないかと思う今日この頃です。
結局のところ、「死刑という実際的問題」がどうしても中心になってしまうということが問題だと思います。
「抑止力」「応報」「冤罪」その他はすべて「実際的問題」です。以前も書きましたが、まずは「刑罰の機能の仕方」「精神医学―刑罰の関係」について述べねばなりません。実際の凶悪犯罪発生率の低さについては最近それなりに論じられるようになりましたが、「精神医学―刑罰の関係」については、死刑廃止派も存置派もほとんど議論していないというのが実情でしょう(特にわが国では)。
さらに、犯罪および刑罰システム自体も、社会システム自身から独立しているわけではないということも認識する必要があります。犯罪が減る(ないし増える)ということは、社会システム自体が変わることによってそうなるということなのです。

















