2007年01月27日
以前、いじめられていた子を持つお母さんからのメール
|
頂いたメールより許可をもらって一部掲載します。
(前省略) 小学四年生のクラスで、いじめ及び学級崩壊があったとき、大元になった子供に知的障害のある子供のお世話係をしてもらうという手を二人目のクラス担任(一人目は悩んで、休職した・・たしかにこうやって逃げちゃう先生が結構いるのは確かなんです・・先生のフォローも考えてあげて欲しい)は使いました。 そして、その人材って、学生時代、先生をボコボコにしたなどと豪語するヤンキー先生では決してない・・・・ 今の政治ちょっとおかしいよねって実は思っている日本のおかあさんたちを探したくて・・・・お玉、人気ブログランキングに登録してます。いろんな人に語りたいから、あんまり過激な事は書かないし、むずかしいことも能力不足で書けません・・それでも、お読み頂けましたら、どうか、ポチッとお願い致しますm(_ _)m 人気ブログランキング←ここ、ここ(^^
|
トラックバックURL
この記事へのトラックバック
この記事へのコメント
あと、給食費未納の件でもわかるように、そんな自省的な親ばかりでも、愛情があれば更正するよい子供達ばかりでもないんですよ
より積極的に
必要最小限の体罰とともに、校内伝染の遮断のために、出席停止も視野にいれてどーすればいじめっこを減らせるのか議論をしていくべきではないでしょうか?
自分も「特別な教育ができる人材」が増えて欲しいと思います。でも、すべての教師がそうなるように努力しないと、その人材ばかりに負担がかかり、他の教師は無関心になっていくような気もします。
また、そのような教師を増やすためにはある程度の評価制度が必要だと思いますが(でないと能力の有り無しがわからない)、評価は差別につながると反対する方が多いので難しそうです。
三重全県の公立校 先生はオール「B」
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4759/19991031.html
余談ですが、下記の記事を読むと人権や同和教育ってなんなんだと思います。
オーマイニュース 「いじめ早期発見チェックリスト」を無視? 中学生自殺事件の背景に見えるもの
http://www.ohmynews.co.jp/HotIssue.aspx?news_id=000000002902
このお便りは知的障害者の児童の世話をさせたという話ですが、うまくいってよかったですね。
ところで出席停止はあくまで死の淵にいる被害者の一時的な救済であって、加害者児童の教育の話とは別のものですよ。
まず被害者児童と加害者児童を引き離さないといけないわけです。
私は加害者児童がさらに不利益を受けるようなことがあってはならないと思いますので、加害者児童を逆の立場に強制的に置く「出席停止」に賛成です。
出席停止中に加害者児童の親が責任を果たさないのであれば、再教育の場を公が作る必用があるでしょうか、それを安易に作ってしまうと更なるモラルの低下があるのでは?と懸念されます。
本当は言いたくないけど、僕の父は10年前に自殺しました。その時僕は小6だったし、何もしてあげられなかったけど、様子だけは鮮明に覚えています。→→→
何が言いたいかというと、そんな状況に子供たちがまさに追い込まれているんです。10年とちょっとしか人生を経験していないような子供たちが、そんな風にして死んでしまうんです。それは本当に彼らが弱かったからなんでしょうか?→→→
被害者はいつだって無口です。それから遺族だって本質的には無口です。→→→
このコメント欄、以前と比べると大分まともな考えができる人の投稿が増えてきたようですね。
とても良いことだと思います。
「具体例の積み重ね」をすることにより、その都度個別にベストと思える対応をとっていくしかない、この一点なのです。その意味でも無口な被害者に耳を傾けることはとても重要です。
それは現場の教師と親が目の前の子供を見ながら手探りで進めるしかなく、ましてや誰かが一律に決めた「出席停止」が魔法のようにすべてを解決するわけではありません。もちろんお玉さんが出された例も、そのときに適切だったわけで、これさえやればよいというわけではない。
教育はパターナリズムに陥りやすい。というかもともとそういう一面を本質的にもっているかもしれない。でも、魔法の杖はどこにもないのですよ。
gomes さん、あなたの書いてくださっている事を受け止めつつ、今晩記事を書きます。少し待っていてください。
というようないい方が「まとも」でしょうか?お玉はとっても失礼な物言いに聞こえますが?・・lefty さん
さあ。僕はまともだと思うし、このコメントを残すことで議論がいい方向に行くだろうと思って書きました。
一方、お玉さんは僕がどんなに言葉を尽くしても、この発言を認めないでしょう。
当事者には客観性なんて持てっこないのだから見る人一人一人がそれぞれ判断するしかないのでは?
「停学処分」は学校教育法第11条の「校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない」場合の「懲戒」「処分」としての「停学」です。
「教育上必要があると認めるとき」の「処分」で、「被処分者」が「何もしない」はあり得ない。「停学」は「教育上必要と認め」「戒めを懲らす」が本来の意味だとすれば、
生徒に反省文を書かせる、親に観察記録を書いてもらう、二度と過ちをしないための改善点などなど、生徒を「教え育てる」ためが学校教育法の趣旨でしょう。
懲戒権の限界は、身体に対する侵害及び被罰者に肉体的苦痛を与えるような懲戒は体罰に該当する(S23法務府法務調査意見長官通達より)
憲法と刑法に係わる問題でもあります!
お玉さんがキミの言葉尻を問題にするのは、キミが他の人たちを軽んじているからだよ。自分はあくまでまともなのだ、って意識が傲慢な態度だとは思わないかな。たとえて言えばいじめをする側が抱く意識と同じだよね。
このような「期待」は「教育公務員特例法は、教育を通じて国民全体に奉仕する教育公務員の職務とその特殊性」を「自覚」できる教員がいないのではないかという不信感が前提です。改善点は、
1.この「自覚」をもった教員を増やす。
2.この「自覚」を醸成できる教育現場を行政が責任を持ってつくる。
3.学校の先生たちが、この「自覚」にもとづいて日々の教育を「自覚的」に行う。
この「自覚」は、憲法と旧教育基本法に書かれている内容をそれだけ「自覚」しているかなんですけどね。
愛国者も小学校時代はいじめっ子といじめられっ子。40年経って覚えているのは被害だけ。加害の事実は忘却。同窓会で加害者と判明し愕然。改善策としては、
1.生を選択する手段の豊富さを小さい時から自然に身体で覚えるように。
2.その風潮を地域や家庭や学校、メディアが一役も二役もかう。
3.天皇のために死ぬことを美徳とした教育と自虐的心理を教える。
4.戦争の「加害の事実は忘却の彼方へ、被害の事実は怨念」は教訓。被害国とその国民の立場に立つ道徳の重要性を教える。
5.人間の素晴らしさが表現されている「田舎の泊まろう」「鶴瓶の家族に乾杯」「地球家族」などは子どもに見せたい番組。子どもには愛を!
今回のエントリについては、見過ごす事のできない、大きな差別問題を含んでいると考え、メール致しました。
エントリに記載されたメールにあるように、「いじめを解決するため」の一例として
「障碍者のお世話」という方法が用いられることに、私は深い疑問を感じます。
なぜなら、ここに一つの問題を解決するために別の差別を内包してしまっているのではないか、と感じるからです。
→→
まず、一つ目の問題点として、このエントリの中で、障碍児は「いじめ問題」からは完全に無関係な立場に置かれてしまっています。
メールの中で、障碍児は「自分が痛い思いをするまで、なぜいけないかを気がつけなかった子」が、
「やさしくなる」過程での教育の手助けとして登場し、
教育における、健常者の「いじめる子」「いじめられる子」とは全く異質の、
「いじめる子」に「やさしさ」を教える存在、「いじめ問題」の外側にいる存在として、扱われています。
障碍児は、このエントリにあったような
>不良や問題児のための特別な教育
のために存在する「道具」ではなく、健常者と同様に教育を受ける権利を持つ一人の子どもであり、
いじめの問題に関わる可能性のある生徒の一人であるという視点が、
このエントリには欠けていないでしょうか。
→→
二つ目に、このエントリでいじめをした少年に与えられた「人権教育」は、やり方によっては彼に障碍者への差別や偏見を植え付けかねないものではないか、という問題を感じます。
いじめをした小学生にコミュニケーションの教育が必要であることは確かです。
しかし、この場合において障碍児をお世話するという「教育」が彼に与えたものとは、「障碍者は常に他者に頼って生きて行かねばならない、弱い存在である」という認識であった可能性はないでしょうか。
→→
もし、障碍児のお世話によって彼が他人の痛みを理解したとして、
その痛みの理解とは、「障碍者は弱くてかわいそうだな」「助けてあげなくてはいけないんだな」という種類の、マジョリティの側にたった欺瞞を含んだ「共感」であり、
「弱い人を助ける事は、感謝されて気持ちのいいことである」という、健常者に都合のいい自己肯定であったのではないかと、私は懸念します。
そうであるならば、この経験は、障碍者は誰かに「お世話」をしてもらうことで、常に他者に依存し、そのことを周囲に感謝し続ける存在であるという、障碍者差別の種を、彼に植え付けた事になります。
そして、三つ目に、このように障害者が扱われることは、まさしく「障害者役割」と呼ばれるものであって、人権侵害に当たる可能性があることを、指摘したいと思います。
「障害者役割」とは、社会が障碍者に求める、一方的に押し付けられた役割や期待する行動様式のことです。
http://www.arsvi.com/2000/001223ys.htm
この「障害者役割」のひとつに、障碍者は、他者からの善意や愛情を注ぎ込まれる受動的な対象であることを要求されているということがあります。
障碍を持つ人は皆、弱く、無能で、健常者からの善意の手を求めている、そのようにふるまうことを期待されている、というものです。
→→
このメールで登場した障碍児について、具体的にどのような「お世話」とそれに対する「感謝」がなされたのか、詳細は分かりませんが、ただ、これが「いじめ問題を解決するための一つの方法」として語られるからには、この障碍児に対してこのような関わり方を推奨することは誤りであり、そこに「障害者役割」の再生産の可能性があることを私は危惧します。
→→
さらに、四つ目の問題点として、このような、障碍者への健常者の善意というものが、
障碍者差別に関する重要な課題を覆い隠す可能性があると、私は考えます。
それは、障碍者がなぜ「お世話」を必要とせねばならないのか、
その理由が社会の側にあるという点を、見えにくくするものではないかという疑問です。
障碍とは長らく、障碍者自身の身体の欠損のみのことであると考えられてきました。
しかし、障碍が障碍たるゆえんは、障碍者の内にあるのではなく、社会による障壁にあると、障害者らは繰り返し指摘してきました。
→→
それは、例えば、足に障碍を持っている人に対して、誰かが階段を上る「お世話」をせねばならない理由は、
彼の足に問題があるからではなく、階段を用いなくても二階へあがる方法を与えない、社会の側の責任放棄であるというものです。
つまり、このような社会的障壁が、障碍者を障碍者たらしめているということです。
このことは、障碍の種別を越えて、世界中の障碍者に共通に認識されています。
→→
「弱い」者を助けるのは、尊いことです。
しかしその「弱さ」が、上記のように、社会がその人に押し付けた「弱さ」なのだとしたならば、
その「お世話」や手助けをするとき、自分自身がその人に弱さを押し付けている責任を負っている、
社会の一員であることを、決して忘れてはならないのです。
その手助けをすることは、常に、マジョリティの側としての自身の立場を問われることになります。
もし、その問いを抜きにして、満足感や自己肯定を得るとするならば、それは大いなる欺瞞です。
→→
その責任を忘れた健常者が、「善意」によって障碍者を助けることが、
障碍の問題を、個人対個人の「愛とヒューマニズム」の問題へと矮小化してしまい、
障碍者への社会の責任を、秘匿する可能性がある。
子どもに、「いじめ問題を解決する方法」として障碍者に関わらせる「教育」を行うとき、
私たちは、教育者として、一人の大人として、常にその問いを意識し続けることができるでしょうか。
これらのことから、「障碍児へのお世話」を、「いじめを解決する方法の一例」として考える事は、不適当だと思います。
ひとつの人権問題を解決するために、他者の人権を踏みにじること、
それを「善意」とすり替えて、隠すことは、あってはならないのではないでしょうか。
長文、連続投稿、大変失礼致しました。メールすることも考えましたが、ぜひ皆様に読んで頂きたくコメント欄に書き込みました。
以前、何度か書いたことがありますように、お玉自身が知的障害のある身内を抱えております。なので、ろこさんのおっしゃる危惧、及びこのエントリーで
いじめの問題に関わる可能性のある生徒の一人であるという視点が、欠けているのではないかというご批判もそう思われても仕方がないのかなと反省しました。
お玉の身内は重度の自閉症があり、養護学校にしか通ってません。ただ、お玉が見聞きする中で、普通学級の中で共に過ごすことで知的障害児、健常児が共に精神面で伸びていけることも知っており、そういう一例と考え紹介しました。
でも、こうして指摘下さって有り難うございます。
読み手のことを考えて推敲してから投稿していただけませんか。
この記事のコメントはタテ読みしか、する気にならない。
ところで、「責任」という言葉を無視できないので少し書かせてください。
なにかの事実に関連して、それをわが身のことと感じている方の思いと、それと距離を持って関われる人の感覚が食い違うことはよくあると思います。ただ、社会というものがあり、そこでみなが一緒に生きていこうという意思を持つときに、互いの違いを知りつつ、それを超えられないジレンマに悩みながらそれでも気持ちを通じ合わせたいとの果てない望みを捨てず努力するのが、僕ら人間なのではないですか。ろこさんが健常者に要求を突きつけるとき、もしかしたら相手も社会の中で心を痛め、苦しんでいるという事実を無視してしまってはいないでしょうか。
「責任」という言葉に反応してしまいました。思いやる心が十分にあれば、戦争も、いじめも、ひどいことはしたくないと思うでしょう。それを忘れずに、世の中で自分の足で立ち、間違ったことを見捨てずに自分のできることをしていく勇気を、死ぬまで持ち続けることができれば本望です。駄文を申し訳ありません。
1.「可能性」を狭くマイナス的に論及していないか?
2.障害者と健常者の連帯の可能性は多種多様ではないか?
3.行政への責任は憲法の視点で国民的連帯・共感を構築し行うものでは?
以上の危惧を指摘すると、
(1)障害者への社会の側の責任放棄
(2)欺瞞を含んだ「共感」
(3)健常者に都合のいい自己肯定と懸念
(4)「障碍児へのお世話」を「善意」とすり替えて、隠す
(5)「お世話」や手助けはマジョリティの側の立場の問いを抜きにして、満足感や自己肯定を得るとするならば、大いなる欺瞞
(6)ひとつの人権問題を解決するために、他者の人権を踏みにじることを「善意」とすり替えて隠す
この表現では健常者は何も言えなく、また「お世話」をできなくなりそう。いじめ問題もいじめる側といじめられる側の人間的連帯をどうつくるかが鍵!
長文で失礼致しました。上に書いたものは、障碍児と健常児が共に学校生活を過ごす事を批判するものではありません。
ただ、「いじめ問題を解決する方法として」障碍児を関わらせることに、
それをひとつの方法として語られることに、痛みを覚えたのでした。
おっしゃるように、知的障害児、健常児が一緒に精神面で伸びて行ける方法はたくさんあると思います。その方法を全て否定するつもりはありません。
ただ、お玉さんは人権意識の高い方とお見受けしております。
重箱の隅をつつくようと思われても、可能性を感じた以上、コメントせずにはいられなかったのです。
私の発言を「糾弾」と捉えられてしまった事、自身の文章力のなさに申し訳なく思います。威圧的なコメントと捉えられてしまったとしたら、それは私の本意ではないことをお伝えしたく思います。
コウトさんのおっしゃることに、私は全面的に賛成致します。とても理解できます。人は誰しも、自分の中に強者と弱者の面を持っています。
健常者として強者であっても、他の面には必ず弱者の面がを持っています。
私は障碍を持っていることで弱者です。
誰かが社会的に抑圧されているとき、私はその抑圧されている立場として、その痛みを自分のことのように感じることができます。皆そうだと思います。
→→
けれども、その誰かを抑圧している「社会」には、その面において強者である私自身が含まれている。抑圧している「強者」の立場としての私が、そこに存在するのです。つまり、別の面では、私は誰かを抑圧する側であるのです。
でも、それは、私が望んで強者の側にたったわけではありません。
男女問題について語られるとき、「男性が権威を握る」ではなく、「権威が男性を握っている」と言われることがあります。
例えば私は裕福な日本に生まれましたが、これは望んで得た強者の立場ではありません。しかし、先進国に生まれた以上は、発展途上国の人々を抑圧する立場に、構造的に組み込まれているのです。
誰かの痛みに寄り添いたいと思うとき、だからこそ、私たちは常に自省しなければならない、責任を自覚せねばならないのだと思います。
たぶん、私の文章を誤読なさっている部分がおありだと思います。
私は、障碍者と健常者の関わりを否定するつもりは全くありません。
むしろ、相互理解のためにとても大切なことと考えます。
しかし、「いじめ問題を解決するための手段」として、
障碍児との関わりが用いられることは、「障害者役割」の再生産となる可能性があることは否定できません。
「狭くマイナス的」であるかどうかは、私はそうは思わないとしか言えません。
ただ少なくても、人権侵害の可能性があるかぎり、私の社会的立場からそれに触れずにはおられませんでした。
障害者と健常者の連帯の可能性の多様性についても何の異論もありません。
でも、それが障碍者役割にのっとった「方法論」として語られる(現にメール内では、障碍児と関わらせるのがいじめ問題に有効という論調です)ことは、私は否定します、というだけです。
あなたの文章がことさら威圧的だったとは思いませんよ。本音を言えば、あなたのような感覚が一般の人たちにすんなり通じるかどうか、を気にしたんです。そちら寄りで考えて、つい「糾弾」という強い言葉を使いました。気にされたなら申し訳ありません。
強者と弱者、抑圧の問題は、もっとも難しい問題だと思います。ろこさんの言う男女、経済的な差ばかりか、人間のあらゆる面に関わることではないでしょうか。ですが、ひとつだけ気になることをお伝えしておきます。
あなたのおっしゃる「抑圧される側」に立ったお話でなく残念なのですが、それはまた、機会があればできると思います。それから、障害を持つゆえに弱者だ、抑圧している社会にいるから強者だ、というのは少し観念的すぎるようにも思いますよ。少なくともあなたは、抑圧者ではありません。
>あなたのような感覚が一般の人たちにすんなり通じるか
ここに誤解があったようです。
私は一般の人たちに向けて私の感覚を通じさせようとして上記の文章を書いたのではありません。
政治家でも活動家としてでもなく、私個人としての思いを率直に語ったものです。
みなさんにもぜひ読んで頂きたいとも書いたけれども、それは事実としてこう感じる人間がいることを知って頂きたいという意味で、
語りかけて納得してもらおうというものではありません。
>それをそのまま人に語るより・・・より効果的な態度変化をもたらすのではないか
どう話すかが自分の意見を聞いてもらうのに効果的かどうか、それは私の文章を書く時の姿勢を問うものであって、
私の書いた文章の中身に関係するものとは思いません。それは別の問題です。
ですが、ご意見はありがたく承ります。
→→
社会的に大きな不利益を被る立場の人間がいることは、厳然たる事実です。
被差別者と呼ばれたり、社会的弱者と呼ばれたり、マイノリティと呼ばれる人々です。
弱者が存在すれば、「それ以外」が存在します。それは積極的に抑圧に加担していようが、傍観していようが、抑圧を受けていない(その面では)という点では、同じです。私はそれを強者、抑圧者と呼んでいます。
強者や抑圧者の存在を否定することは、弱者や被差別者の存在を否定することです。
差別を受けるものがいることを認めるなら、それは差別を受けない人がいることを認めることと同じことです。
また、コウトさんのおっしゃる一般人とそうでない人という分け方が観念的でない理由もよく分かりません。
障碍を持つ人が別の面で強者であったり、抑圧する社会にいるものが他の側面におい
て弱者である可能性については、
私はすでに認めています。
>僕は障害のある人も、そうでない人も、いじめを受けた人も、そうでない人も、み
な人として暖かい心を持って生きて欲しいと・・・
全ての抑圧を同列に扱い、混同して語ることは、その問題の解決への具体的な道筋を
見えにくくし、焦点を曖昧にします。
強者と弱者の間に、「そうでない中間層」を作ることで、問題が解決するとは、私は
思いません。
他の面でマイノリティであるから、もう一方でマジョリティである自分を薄めること
はできないと思います。
言ったので、
この話は終了したいと思います。
コウトさんを初め、私の意見に真摯な回答を寄せてくださった方々、お玉さんに、改
めて感謝致します。
なお投稿中に何度もエラーがおき、リロードしてもコメントが表示されていなかった
ため、
コメントがいくつも重複してしまいました・・・。本当に申し訳ありません。お手数
ですが、削除をお願い致します。
終了するんですか・・・^^;
エントリから逸れるとは思いませんが、ろこさんが対話を望まないと言うなら仕方ないですね。あなたがおっしゃることは概ね理解できるように思います。ただ、強者・弱者の決め方はいまひとつわかりませんけども。僕は、そういう風にあらかじめ決まるものというよりは状況に応じて変化するものだと取りますけどね。マイノリティであるがゆえに、絶対に不幸にしかならないわけではない、でしょう?それでも弱者だから、抑圧されているからというと、単なる条件の相違になってしまいませんか?
障碍者と健常者の連帯の可能性の多様性・関わりを否定・異論もないのであれば、その可能性を多面的に追求すべきではないのでしょうか?むしろ、相互理解のためにとても大切なことと考えます。
それを「障碍児との関わり」=「いじめ問題を解決するための手段」=「障害者役割の再生産」となる「可能性」を説く主張は否定しませんが、そうでない「可能性」もあるのでは?
「狭くマイナス的」であるかどうか、「人権侵害の可能性」「私の社会的立場」から「私はそうは思わない」なら、「愛国者も思わない」って議論になってしまいますね。
以前「ひまわり号」だったでしょうか?健常者と障害者の交流の話を聞いたことがあります。また非行が荒れ狂った時期に、被爆者の証言を聞かせて、子ども達を立ち直らせようとした学校の話を聞いたことがります。これなんかはどうでしょうか?
私が議論を終了したのは、エントリの「いじめ問題を解決するための具体的事例」という主題から
「社会的差別」という主題へとずれていっていると感じたのと、あなたが私の話を理解していないと感じたためです。
※お玉さん、この議論がエントリからそれた内容であると思われたら、お教えください。
議論の一方がそれていると感じ、もう一方がそっていると感じている状態では、
第三者に判断をゆだねるのが望ましいと思います。
でも、コウトさんが「弱者って?」というところで悩まれているようなので、ご説明致します。
>だらしない親の下に生まれたら弱者、裕福だが病弱に育ったから弱者
そんなことは誰も言っていません。
私が社会的弱者、差別と表現するときの、こちらの(http://macska.org/)ブログ主さんの使われる定義を引用させていただきます。
「社会構造上の、大規模な傾向を持つ不均衡」。
しかし、もし実質的に、「だらしない親の下に生まれた」ことを理由に、何らかの社会的不利益を被ることがあり、
それが大規模な傾向であることが確認されたとき、「だらしない親の下に生まれた」ことにより、
社会が「だらしない親の下に生まれた人」を差別していることになります。
>条件を超える力を鑑みることです。人は成長するものです
ですから、そういう見方が、数ある差別を「個人対個人の『愛とヒューマニズム』の問題へと矮小化」するし、「社会の責任を見えにくくする」と、一貫して批判しているのです。
差別問題は、あなたの言うように個人の「成長」の力によって解決できる問題ではありません。
「未来を信じる」だけでは問題は解決しないのです。
いじめにあっている少年に、「人は成長する者だ、未来を信じるだけだ、可能性を信じず立ち止まってはならない」と言って何になりますか?
おのおのに努力せよと申し出て、努力できない子、力を持たない子はどうすればいいですか?
繰り返しますが、個人が希望を持つだけでは問題は解決しない。それは、差別やいじめの人権問題は、個人の問題に帰結されるものではないからです。
個人の問題にすれば、結局いじめ問題の責任を全ていじめる子どもに負わせて、「出席停止」させることで問題解決されてしまいます。
差別を受ける者は生きて行くことができないし、そのような努力や「成長」が弱者にのみ求められてる時点で、すでに不平等です。
社会は特定の集団にのみ、そのような努力や「成長」を強いてはならないと私は考えます。
なぜなら、人はみな法の下では平等だからです。
愛国者さま>
お玉さんのレスにも書きましたが、私は一つの人権問題を解決しようと思うとき、他の差別を内包する可能性がある限り、
その選択肢をとることに慎重にならなければいけない、と主張しています。
障碍者役割の再生産となる可能性があるなら、そうならないように教育者が自覚をしなくてはいけないし、
そのように子どもを教育することはできるだろうか、と疑問を呈しているだけです。これが相互理解を阻害するものとは思いません。
>非行が荒れ狂った時期に、被爆者の証言を聞かせて、子ども達を立ち直らせようとした学校の話
これは全く違う問題で、比較になるとは思いません。
了解します。社会的差別を論ずるエントリではありませんね。失礼しました。種々の論点についてはまたいつかお相手をお願いします。
理由は、いじめそのものが多様な要因から発生しているからです。また加害者は被害者になることもあるし、被害者になることもあるのです。そうした現在の子どもをめぐる心理状況・客観的状況を踏まえると、全く違う問題で、比較になるとは思いませんというのは、非現実的ではないでしょうか?
>いじめを「解決する手段」は多様でなければなりません
何度も申しますが、私は多様性は批判していません。先にも書いたのをもう一度書きます。
>私は一つの人権問題を解決しようと思うとき、他の差別を内包する可能性がある限り、
>その選択肢をとることに慎重にならなければいけない、と主張しています。
多様な選択のなかから、ある一つの方法を持ち出して「方法論」として位置づけるとき、
「こういう問題があるから、慎重にやるべき」と指摘することが間違っているとは思いません。
「ではこういうケースはどうなのか」と聞かれても、それはここで出てきた「方法論」とは違う一つの選択肢であって、
それを方法論として位置づけたときにどういう問題が発生しうるか、それはまた別に考慮する問題があるなら考慮すべきですね、というだけです。
意味がわかりません。そんな話はしていません。
被害者と加害者が逆転する可能性があるのは理解しています。
そのことと、私がいじめ問題の解決の手段としてこのエントリでとられた方法が障碍者役割等の問題を含むことを指摘し、
それを方法論とする事にはこういう危険性や問題があるのではないかと疑問を呈することが、どう関係しますか?
どんなにたくさん選択肢があって、その多様性を否定せずとも、一つの方法を「方法論」にしたら、
注意しなくてはいけない点は出てきます。それを注意しましょう、と言っているんです。

















